そもそも歴史はなぜ学ぶ必要があるのか。一般的に学校時代に授業で習う歴史は、小学校の社会、中学生の社会、高校生の時の「日本史」と「世界史」でした。
そのことを踏まえつつ、日本史と世界史を比べていきます。
歴史を学ぶ意味とは
健太君は小学校の六年生で、来年から中学に進学します。社会が大好きで来年からは、今よりもっといろいろなことが学べる喜んでいます。
健太君と同じ疑問を抱いた人も多いのではないでしょうか。歴史が好きな人は多いのですが、同じくらい興味のない人もいます。歴史を学ぶ、ということの面白さの一つに過去のある人物が何をしてその結果、どうなったか、を知ることができる、ということです。
過去をドラマのように見ることができる、というわけですね。そこに年号のような数字を覚えさせようとするから嫌になる人も出てくるのではないか、と思います。もちろん、ただ興味がないという人もいるのでしょうが・・
では先生に登場いただきましょう
天地創造と古事記、人の起源
旧約聖書 創世記の1.1には
はじめに神は天と地とを創造された
つまり何もないところから、神がこの世界を作った、と言っているわけですね。また、人の起源についても説明しています。これに対し、日本の古事記にも世界の最初のことが記されています。
天地が初めて発れたとき、高天原に成ったのは天之三御中主神でした
「あめつちがはじめてあらわれたとき、たかまのはらになったのはあめのみなかぬしのかみでした」と読みます。このあともう二人(柱)が登場します。
聖書は「神」が先、古事記は「天地」が先、ということです。古事記には誰が天地、つまり宇宙を作ったかに関しての話はなく、逆に聖書は神の誕生については話がありません。
この事実はどうでもいいように見えてとても大切ではないか、と思います。聖書の神は宇宙すら創造できるのですから、人間には及びもつかない知恵や力がある、と思わざる負えません。
これに対し、古事記に登場する神々を見ていると、ミスをしたり、嫉妬したりと聖書の神から見ると人間に近い存在です。
さらに大きな違いとして、人間は西洋の神には絶対になれません。日本では、天皇が亡くなったあと神になるケースがあります。例えば明治神宮は明治天皇が祭られているのですから。古事記の神々の子孫であれば、「神」になれる、ということです。
このほかにギリシャ神話に出てくる神様も聖書の神よりは人間らしいですよね。浮気して妻以外の子供を作ったり、それをごまかすために人を動物に変えたりなど、考えようによっては人間よりひどいかもしれません。
他の宗教も見てみるとイスラム教では、アラーが人を創ったといい、仏教では人の始まりについての記述はなく、輪廻転生で生死を繰り返すといわれています。
こうしてみると同じ「神」という言葉を使いますが、キリスト教やイスラム教、ギリシャ神話、古事記の神とそれぞれ随分と違うことがわかります。
この違いはそれぞれの文化の成長に大きくかかわっていくことになります。
古事記の話
古事記ができたのが、紀元712年と言われています。なぜ作られたのか、というのは、諸説あるようですが、作成を命じたのが天武天皇です。天智天皇は大化の改新のときの中大兄皇子です。
稗田阿礼(ひえだあのあれ)が話していた歴史を、712年大安万侶(おおのやすまろ)がまとめました。前半は神話をもとにした話が多く、最後の方はかなり簡単に書かれている印象があります。
初めに、イザナギとイザナミが様々な神を生み出します。やがてイザナミが自分が生んだ火の神のカグツチが原因で亡くなってしまいます。怒ったイザナギは自分の子供であるカグツチの首を切ってしまいます。
その後、イザナギは亡くなってしまった妻を甦らそうと黄泉の国に向かいます。しかしイザナミはすでに黄泉の国の食物を食べて醜くなっていたので、イザナギに姿を見られたくなく、帰りたくないと言っていました。
しかし、執拗に説得するイザナギに心打たれたのか、イザナミは黄泉の国の神に相談して、帰ることにしました。帰る際には決して振り返らないで、とイザナギに言いました。しかしイザナギは我慢できずに妻の姿をみてしまいます。
その姿は蛆が体中に這いまわっている姿だったのです。イザナギは逃げ出しました。何とか逃げ切ったイザナギですが、黄泉の国の穢れがついていました。そこでイザナギは禊を行います。
その禊の最後にイザナギが顔をあらったときに誕生したのがアマテラス、ツクヨミ、スサノオです。イザナギは高天原をアマテラス、夜をツクヨミ、海をスサノオに統治させました。
ここからはこの三神が中心になって話がすすんでいきます。
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